達人の朝は、早い

まだ午前も明け切らない午後12時前、達人は目覚める

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週も明けた月曜日のこの時間
まともな勤め人ならば、会社のデスクで昼ご飯のメニューでも考えている時間

達人は静かに目を覚ます

「朝はいつも、この位の時間に起床するんですか?」

朝飯の準備をしながら、達人は静かに言う

『まぁ…ね。あまりゆっくり寝ている訳にはいかないんだよ。テトラは、待ってくれないから…』

手際よく朝飯を調理する達人。その様は、やはり釣り人としても、テトラの達人としても、細やかな気配りが出来る事を物語っていた

チンッ

『よし、出来た出来た…』

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達人特製の親子丼

『最近はチンするだけで親子丼が食べられるから、楽になったよ』

いつも厳しい表情の達人が、フと見せる笑顔
それはまるで、少年のようだ
…さっきの調理は、いったい何をしていたのだろうか…

親子丼を口にかき込む達人
数分で食べ切ると、その表情はまた厳しいモノに変わる

『さて…と…』

計量カップを手にし、また台所に立つ達人

「?何をするのですか?」

『ふん、ちょっと待ってな…』

手際よく冷凍庫から何かを出すと、またも何かを作り出す

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素蕎麦の上に見事に散らされたネギ…さっきの調理は、この為だったのだ
やはり達人は、私達取材班の上を行く考えや行動をするものである

しかし、あれだけ大盛りの親子丼を食べて、まだこの上蕎麦まで食べるとは、さすがは達人…と我々が思った時、達人は静かに口を開き、信じられない言葉を放つ

『今回は…密着取材…ってヤツなんだろ?お前達、飯…まだだろ?』

何という事だろう。取材のお願いをした時に「取材班の事は一切意識しなくて良い」と伝えてあったのに…
感動した我々がその言葉に甘えようとしたその時、達人は話の続きを始めたのである

『大変だよな…本当に。ゴメンな、俺ばかりこんなに食べて…でも、コレは毎朝欠かせないんだよ…』

そう言うと、達人は美味しそうに蕎麦を食べ始めた

やはり達人は、私達取材班の上を行く考えや行動をするものである

「欠かせないと、言うと、やはり何か、この朝ごはんにはこだわりや意味があるのですか?例えば、某プロはバス釣り大会の朝はカツ丼しか食べないそうですが」

一瞬、顔が曇る達人
『…ん…うん、あるよ。こだわり…と言えばこだわり…かな…』

ゴミ袋から、冷凍蕎麦の袋を出す達人
その袋に書いてある表記を示し、達人は静かに語り出した

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『ここ、ここを読んでみて…300mlって書いてあるでしょ?コレねぇ…実際300mlだと、汁が少な過ぎるんだよ。だから俺は、さらに200ml水を足して、市販の麺つゆを入れるんだよ。そうすると、汁がたっぷりの蕎麦になる…人生って、そういう工夫が大切だと思うんだ…』

やはり達人は、私達取材班の上を行く考えや行動をするものである

一通り食べ終わると、台所に鍋と親子丼の入れ物を投げ入れ、コタツでウトウトとし始める達人

「もう12時を回っていますが、まだ釣りには行かないのですか?」

『……今…頭の中で釣ってんだよ…テトラに立っているんだ…テトラってのは、生き物だ。テトラ釣りは準備が8割。準備の時点で、釣れるかどうかは決まっている』

ウトウトする達人のコタツの上には、達人の母親の書き置き
「今日は月曜日です。皆は仕事に行っています。月曜日くらいハローワークに行ってみたら?ママは少し足が痛いので、仕事の後病院に寄ってから帰るので、2時半には帰れると思います。行って来ます」




達人の背中が、少し寂しそうに見えた…




我々の目線に気付く達人

『あ、コレ?ははは…見られちゃったな…良いんだよ、気にしなくて…だって、おかしくない?俺、別に産んでくれとか言ってねーし。安倍総理も言ってたしね、一億総活躍社会って。働くって大切だからね』




達人の背中が、少し寂しそうに見えた我々の背中は、少し寂しそうに見えていると思う

(ここで一度、スガシカオの、プロフェッショナルのあの曲を聴いて下さい)

時計の針が2時を回った頃、達人がついに動き出す

『よし…行くか…』

「今日の狙いの場所は?」

『……考えていたんだが…テトラの森にしようと思う』

「森?テトラの森?」

『そうだ。関東で最も困難なテトラと呼ばれ、テトラ海とも呼ばれるテトラだ』

「海だからテトラなので、テトラ海ってのは、意味がかぶってしまって分かりにくい感じですね」

『テトラ界の樹海…入れば戻って来られない…だからそう呼ばれているんだ』

達人の体からは、どこかオーラの様なモノが放たれている

釣り具を整え、出発

「テトラ海までは、どれくらいかかるのですか?」

『いや、近いよ。車なら10分もかからない』

「意外と近いんですね」

『まぁ、ね、だから30年も通ってる…』

釣り具を持って自宅を出発し、歩く事10分

「駐車場遠いですね」

『いや、車なら10分かからないけど、歩くと1時間くらいかかるんだよ』

静かに…しかし、その背中には闘争心が見える達人は歩き続ける

「なぜ、歩いて行くのですか?」

『………んーーー、何でだろうね…』

少し笑顔を見せ、はにかむ達人はさらに続ける

『まず、車はマ…母親が使ってるからね…で、湘南って、駐車場の料金が凄い高いんですよ』

「なるほど…毎日の様にテトラに通うとなると、バカになりませんもんね」

『うん、そうなんだよ。後は…んーーー、やっぱり、免許持ってないってのもあるよね』

(ここでもう一度、スガシカオの、プロフェッショナルのあの曲を聴いて下さい)

釣り具を持ち、軽快に歩き続ける達人

その足取りは軽やかで、機材を持ち歩く我々とは天と地程の差がある
やはり達人は本物であるとしか言い様はない

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鎌倉の有名な大仏トンネル(隧道)に差し掛かった時、静かに達人は口を開いた

『車に乗ろうが乗るまいが、やはり、同じなんだよ…』

「どういう事ですか?」

『ほら、見てごらん』

達人は、静かに足下の標識を指差す

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『な?』

「?はい?」

『車に乗ろうが、ここでは歩いて通行しなきゃいけないんだよ。ここからトンネルを抜けるまで車を押して行かなきゃならないんだから、家から歩いて来ても同じだよ』

そう笑いながら話す達人は、どこか輝いて見える

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もう、観光して帰りたい…

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交差点を抜けた先、ついに海が我々の前に現れます

ああ、海だ!海に来たぞ!!
もう、海見ながら鎌倉ビール飲んで帰ろう!!!

そんな我々を見透かした様に、達人は言葉を発する

『さあ、テトラ海はもうすぐだ』

ハッとする取材班

そうだ…我々は甘えていた…この男は、この達人は…この達人の挑戦は、ココからなんだ…






テトラ海、到着




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(ここでもう一度、スガシカオの、プロフェッショナルのあの曲を聴いて下さい)




何のためらいも無く、このテトラの上に革靴で立つ達人
その背中からは、殺気に似たオーラが出ている

『よし…釣りの準備を始めるぞ…』

達人の、重い、覚悟の乗った声…

ついに、テトラの樹海、テトラ海での釣りが幕を開ける






…………………

………

………………
………

…………………

釣り具を見つめながら、微動だにしない達人

やはりここでも、頭の中で、今日の釣りの最後の準備を怠らない
かのイチローも、試合の前に、頭の中で一試合を終わらせるという
明確なイメージを持つ事で、そのイメージは現実になる

「行きましょう!テトラへ!」

………

………………

………
……
『ダメだ…イメージが湧かない…』

「?え?いや、いやいや、どうしたんですか?」

『だから、釣れるイメージが湧かないんだよ…』

「!?ちょ、ちょっと、何でですか!?」

………

……

………………

…………

数分…だったのか…いや、数秒だったのかもしれない

しかし、我々取材班には、数時間にすら感じた無言の後、達人は、重い口を開いた







『なぜ、こんなにも釣れるイメージが湧かないのか全く分からない…なぜだ…なぜ釣れるイメージが湧かないんだ!』

掛ける言葉の無い我々取材班を、優しく見る達人

『すまない…せっかくここまで来てくれたんだ。せめて、このテトラ海を案内しよう』

優しい言葉とは裏腹に、達人の額には汗が流れている

空が空なら、雪が降ってもおかしくない程の気温なのに…



『ここから降りるんだ…』

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示された一歩目から、大きな恐怖感に襲われる取材班

「こ、こんな場所から降りるんですか?」

『だから言ったろう…ここは、一度降りたら戻れない、と』






ようやくテトラに降りるも、そこはもう、まさに「テトラの森」その物

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「こんな所で…釣り何て…」

『だから言ったろう…ここは、テトラの最難関…テトラ海…このテトラはとんでもなく広く、同じ形状のテトラばかりだ。進めば進む程、テトラに巻き付かれて動けなくなる…』

我々取材班は、とんでもないテトラに入り込んでしまったのかもしれない

『しかも、だ…ここのテトラは特別仕様でね…テトラの主成分であるコンクリートに、特殊な金属が混ぜられていて、コンパスが効かない…』

「テトラに特殊金属?そんなバカな…何の意味があるんですか?」

『………お前達は、テトラに迷い込む魚の気持ちを考えた事はないのか?』

「魚の…気持ち?」

『………魚も人間も、同じだ……』

「???」

『人が、富士の樹海に行く時、何を考えている?何故に、樹海には、自殺防止の看板が所狭しと立っている?』

「!?ま、まさか!」

『そのまさか、だ…魚にとって、テトラは人間以上に危険な場所だ。波に溺れてテトラの隙間に入れば、もう二度と外洋へは戻れない』

「…………」

『魚の自殺は、近年問題になっている…浜に大量に打ち上げられるクジラやイルカが、その良い例だ』

「………………」

『だから政府はその予防に、テトラのコンクリートに特殊金属を混ぜ、磁場を狂わせる事で魚の進入を防いだんだよ。魚は磁力で方向感覚を定めて移動している。このテトラには近付かないのさ』

「…………」

そ、そうだったのか…だからこのテトラは、テトラ海と…






!?ま、待てよ!?
ではなぜ、達人は、この魚の来ない危険なテトラで釣りをするのだ!?

「魚の進入を防ぐテトラ…なのに、なぜ、あなたはココに来るのですか?」

………

………………

…………

…………………

……

『ずっと前……親父が………このテトラで、死んだ』

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『このテトラの海に迷い込み…ポケットにあったコンパスを頼りにテトラから脱出しようとしたが、コンパスは効かなかった…なぜコンパスが効かないのかは、俺が政府に問いただしてやっと分かった事なんだ…どんな場所に行くのにも、準備は1番大切なんだ…場所と道具、その双方をキチンと用意しないと、ダメなんだよ』









!?
ま、まさか!!!?
そうか!

「このテトラに来る日、朝必ず食べる親子丼は…」







『馬鹿野郎…そんなのは………ただの偶然だ…良いよな…親子…って』






やはり、達人は達人であり「釣り」自体しなくても、その釣りの上手さを感じさせる程の実力の持ち主である事は間違いないであろう









しかし、なぜ、ここまで大切で準備して来た釣り場でも、達人はイキなり釣れるイメージが湧かなくなってしまったのか…
あの、額に流れる汗は何が理由だったのか…
取材も終わり、帰り際に聞いた達人の言葉が、今でも忘れられない










『リールを、家に忘れて来た』